運命

人の生死に関する部分について私は運命論者です。通常ではない死に方をする人は吸い込まれるように死んでしまいます。その一方で本来そこにいるはずなのに偶然その場に居合わせなかったとか、あの状況でどうやったら生きていられたのかという人もいますよね。運命を感じざるを得ません。私においても、私の人生に少なからず縁のある人3名が非業の死をとげてしまいました。

昭和63年夏。朝、テレビをみていたら臨時ニュースを伝えるテレップが流れました。潜水艦と釣り船が衝突して釣り船が沈没したという稀有な事故を伝える内容です。どう間違ったら潜水艦と釣り船が衝突するのか想像できませんでしたが、この事故、かなりの参事になってしまいました。いわゆる「なだしお事件」ですね。
夜のNHKニュースで死亡者リストが流されているのを何気にみていたら、なんと知人と同姓同名があるではありませんか。仮にK君としておきましょう、比較的少ない苗字で名前まで同じというのはそうそうあることではありません。と、思っていたら電話が鳴って「NHKみているか」と友人。気が付いたよと告げると「確認する」と言って切ったきりしばらく連絡が取れなくなってしまいました。

この友人はK君とも非常に親しく新聞記者出身ということもあってか、なぜK君がそんな事故に巻き込まれてしまったのか調べていたとのこと。で、後日談。K君は男前で常時女にもてていました。勤務先のN証券においても女子社員が放っておくはずもなく当然付き合っている彼女がいたわけですね。仮にS美としておきます。ところがK君に恋焦がれていた同じ社内のY子が意を決してK君を誘い出しました。そのプランが釣りだったのです。K君の好きな釣りへの参加なら来てくれると信じたのでしょう。

実は件の釣り船、当日は伊藤忠商事の釣り同好会が借り切っていたものでした。伊藤忠商事と無関係なN証券のK君が何故そこに居合わせてしまったのか。Y子の父が伊藤修商事に勤務していたのです。父の計らいでY子とその友達の釣り同好会への参加がなされたわけです。事故当日、Y子の待つ港に現れたのはK君だけではなく、なんと同僚のS美を伴っていたのでした。状況を理解したY子は体調不良を理由に船には乗りませんでした。Y子はK君とS美を船に乗せ、見送った後その場を後にしたのです。


昭和61年6月。末森、渡辺、私の3人はミナミ(大阪)の居酒屋で語らっていました。末森は養命酒株の仕手戦に参加しており、株価も上がっていたので儲けていたのでしょう、この日は彼のおごりでした。渡辺は将来の相場師を夢見て、当時頭角を現していた北浜の仕手筋、見学和雄率いるコスモリサーチに入社して見学氏の弟子になりたいと熱く語っていました。私は1年半ほど滞在した大阪を後に東京へ戻るところでした。

見学氏とその盟友丸金証券の大物外務員木村氏の手掛ける銘柄はことごとく的中。K.K軍団と呼ばれ一世を風靡していました。渡辺君も無事、コスモリサーチに入社。早々に見学氏の側近の一人となり若く人懐っこい性格からか見学氏にかわいがられていたようです。
昭和63年春先。大阪のベテラン証券外務員から「ケンちゃん(見学氏)と連絡つきまへんのや」との報告。当時、見学氏と日本土地の木本氏はコニカ株の買い占めを進めていたのですが、突如株価が変調をきたしたので様子を探ってくれと私の要望に対する返答がそれでした。翌日、コニカ株はストップ安の大暴落。「投げたほうがえんちゃいますか。(見学氏は)完全に行方不明ですわ」。幸い私たちの買値は低かったので儲けそこなっただけで済みましたが。
見学氏行方不明事件も忘れてしまっていたある日、日本経済新聞の社会面を開くと顔見知りの写真が並んで掲載されているのが目に飛び込んできました。末森と渡辺君です。見出しに目をやったとたんぶったまげました。見学氏の殺人事件であり、記事に目を通すと渡辺君は見学氏と一緒に殺され、加害者が末森であるとの内容。末森には暴力団関係の共犯がおり、コンクリート詰めにされた遺体が発見されたという凶悪犯罪です。
末森はいいやつだったはずなのになんでそんなことになった、という私の疑問に末森と親しかった大阪の知人は「末森が養命酒の仕手戦に参加していたのは覚えているよね。うまくいっていたのだけれど去年株価が暴落してのっぴきならない状況に陥ってしまった。で、ヤクザから金を借りた。取り立てがきつくて悩んでいたのは知っていたのだけれど、どうしてやれることもできなくて…」
当時はヤクザ全盛期。まして大阪ですから、その凶暴性は東京と比較になりません。人間追いつめられると知人、友人、場合によっては親、兄弟まで“売って”しまうのでしょうね。見学氏が渡辺をかわいがっていたのを知っていた末森は渡辺をさらって見学氏から身代金を取ることを思いつき、たぶんヤクザに提案したのでしょう。実行犯ではないにもかかわらず実行犯と同罪になっているのはそのためですね。後に末森とヤクザは死刑判決確定。


平成7年3月。知人Mから電話が入り「大変だ!茅場町が破壊されている」と第一声。まだ目覚めていなかった私に今すぐテレビをつけろと言う。報道は混乱しており、何かが爆破したのか毒ガスのようなものが発生したとの情報もあるといった程度のもの。受話器をそのままにしばらく映像を眺めていた私は、ある理由からオウム真理教の仕業だと直感しました。地下鉄サリン事件です。Mに、オウムだ!すぐにオウム真理教の仕業だと判明するよといって受話器を置きました。が、その瞬間血の気が引きました。女子社員たち…携帯電話が普及していない時代ですから連絡の取りようがありません。

ちょうどこの1か月前に私は携わっていた茅場町の会社での仕事を終えており、フリーになっていたので自宅にいたのですが、その会社の女子社員たちのことが心配になり不安が襲い掛かってきました。なぜなら内2名は私が採用したからです。そしてもう1名のT子。私が辞める直前に5人いた女子社員の内の一人がいわゆる寿退社で欠員が生じるため求人したのです。もちろんメジャーな求人媒体で。ところが、応募がまったくありません。景気は悪化していたので求人すれば相当数の応募があるのは当然という時勢にもかかわらずです。今日までとしてあった募集期間にたった一人応募してきたのがT子。まだ二十歳でした。私の退職は決まっていたのでどちらでもよかったのですが、会社にはT子の採用は見送るよう進言しました。事務能力の高かった社員の穴埋めをするはずなのに、バイトを含め働いた経験がない娘を採用する理由がなかったからです。もちろん、こんなに応募のないことは初めてでしたので何か気持ち悪いということも当然ありました。

茅場町駅が閉鎖されていたというということもあり、ようやく会社に電話がつながったのは14時ごろではなかったでしょうか。電話に出たのは私が採用した内の一人N子でした。「A子も大丈夫。出社していないけどさっき連絡きましたから。でも、T子の所在がわからない」なんと、T子は採用されていたのです。
N子の後日談。N子、A子、T子の3人とも地下鉄日比谷線の北千住方面からの出勤でした。N子、A子は混雑を避け早めに家を出ていたので、9時からの勤務に対して遅くても8時20分には出社していたのですが、T子は9時ぎりぎり、遅刻も頻繁にしていたそうです。

事件当日。N子は歯痛で歯医者によってから出勤しようと決めました。A子も体調不良で事件発生時刻まだ自宅いました。もしもこの二人がいつもどおり出勤していたら…そしてT子。この日に限って早く家を出てしまいました。しかも、会社に近い出口は北千住方面から来るなら電車の後ろ側であり誰でもそのような乗り方をするのですが、その日のT子は前から2両目という出勤過程からもありえない車両に乗っていました。そして、正にその車両でサリン入りのビニール袋が破られたのです。地下鉄サリン事件における当初の死亡者数は当初6人だったと記憶していますが、T子はその内の一人。ほぼ即死であったと聞いております。合掌

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